NAGATOROGURA ABOUT US

享保十三年から続く日本酒造り

創業者・藤﨑宗兵衛光重は近江国日野地方(現在の滋賀県現蒲生郡日野町)の出身。 その類い稀なる商才と目利き力によって全国に名を馳せた“近江商人”の家に生まれ育ちました。 日野は近江の中でも「清酒」の製造販売を得意とした地域。彼らは日野商人と呼ばれ、活躍の場所を関東へと広げていきました。 その一派である「十一屋」を屋号に、初代・宗兵衛が「藤﨑摠兵衛商店」を設立したのは享保十三年のこと。 以来、醸造と行商を営みながら、中山道を中心に日本酒文化を広げることに尽力しました。
近江商人の心得「三方よし」の精神と、十一屋・藤﨑摠兵衛が培ってきた「技で磨き 心で醸す」日本酒造りを現代に繋ぐことが私たちの務めです。 今日も丁寧に真面目に、真摯な酒造りに取り組んでいます。

HISTORY

■初代・藤﨑摠兵衛光重

八代将軍・徳川吉宗が権勢をふるっていた享保十三年(1728年)。 江戸五街道のひとつ、中山道に、藤﨑摠兵衛商店は創業しました。

昭和の代表銘柄を担った白扇の看板
昭和の代表銘柄を担った白扇の看板

創業者・藤﨑宗兵衛光重は、滋賀県猪田村(現蒲生郡日野町猫田)の出身。 その類い稀なる商才と目利き力によって全国に名を馳せた“近江商人”の家に生まれ、育ちました。

近江商人とひとくくりに称されることが多いですが、実は、湖東、八幡、高島、日野などの地域ごとに、それぞれが得意とする商品が異なるものでした。藤﨑家のあった日野地域の主力商品は「清酒」。日野商人は、卸・小売業に特化せず、北関東地方の街道沿いを中心に行商を重ねながら徐々に商店を設置。主に清酒の製造・販売を行いました。

当時の日野地域には2つのグループがあり、ひとつは村の中心部に分家別家関係の同族で形成された「日野屋」。もうひとつは、西方にある北比都佐村(きたひつさむら)の「十一屋」。こちらは藤﨑家、田中家、北西家などの十一の地縁グループが共通の屋号を使用し、組織化されました。日野屋は埼玉県東部から栃木県にかけて商売を展開。対して、十一屋は群馬県から埼玉県北西部にかけての中山道沿いに進出。それぞれに経営手腕を発揮し、発展をしました。

昭和二十二年の藤﨑摠兵衛商店(寄居本店)
昭和二十二年の藤﨑摠兵衛商店(寄居本店)
秩父支店
秩父支店
長谷見酒店
長谷見酒店
籠原支店
籠原支店

一方で、北関東の酒造りの歴史を紐解いてみると、江戸の頃、県外からの流入組が多く酒造りに携わっていたことがわかっています。(※1)
江戸という大消費地に近く、 “新規参入がしやすい場所”だった北関東は、その特殊な好条件ゆえ、前述の近江商人はもちろん、出稼ぎ・酒蔵移転などによって頭角を表した越後杜氏が拠点を持ち、酒造りに励む場所となりました。

藤﨑摠兵衛商店は、その頃より清酒の品質向上を求め、埼玉の武蔵杜氏や新潟の越後杜氏を広く集めて、積極的に酒造りと杜氏に投資を行いました。新潟地方で採用された越後杜氏が、藤﨑摠兵衛商店の酒造りに関わることも日常的に行われてきました。

近江商人×越後杜氏による協力関係が新しい商品や価値観を生み出すこと。
これは現在にまで脈々と継承される、“摠兵衛スタイル”です。
※1:参考文献:「近世・近代における埼玉県清酒業の形成過程」青木隆浩著のレポート

NAGATORO GURA

■十三代目・藤﨑摠兵衛茂と杜氏・穐池崇

現在、十三代目当主・摠兵衛を務めるのは尾坂茂。そして、日本酒造りを担うのは、若き杜氏・穐池崇です。 穐池は「埼玉に冠たる純米酒を作りたい。酒で埼玉の誇りを築きたい」との想いから、自身の出身地でもある熊谷で新たに開発された埼玉の酒米「さけ武蔵」に着目。その研究をスタートさせました。
風布川・日本水にほど近い場所に、“常ニ清キ水ノ流レ出ヅル所在也”として地元農家から崇められてきた天然水があること。そして、それが酒造りに適した水であることを発見し、これを仕込み水に“純米酒・長瀞”を生み出しました。
十三代目摠兵衛・茂は、その水を豊富に使える場所として、宝登山の麓にある長瀞の地に藤﨑摠兵衛商店の醸造研究所「長瀞蔵」を設立。「埼玉でしか造れない地酒造り」を目指し、本社も長瀞に移転。嗜好性が高く、よりこだわりの強い酒を世界に送り出すことを目標に日々奮闘しています。

清酒醸造研究所 清酒醸造研究所 清酒醸造研究所 清酒醸造研究所 清酒醸造研究所
清酒醸造研究所